2025年2月10日月曜日

フジテレビの“性上納”は、日本に昔からある性接待に根付いている

 日本文化というか男性社会文化において、性接待というのは、もはや状態化され、当たり前の“文化”として根付いてしまっているのではないのでしょうか。

今回は、フジテレビの女性アナウンサーの性被害により、“性上納”及び性接待が問題視・疑問視されています。

これは、わたしを含む、おぢさんたちならば、その“文化”に対して、さほど驚かないことと思います。

結局、欲高き男が望むものは、

金と女(一部の人は少年?)

なのです。

金があれば、うまいものを食って、うまい酒を飲んで、いい家に住んで、カッコいい車に乗って、海外旅行をして…などなど、多くの自己欲を満たすことが可能です。

しかし、金があっても、性欲を満たすことは一筋縄ではいきません。

権力を持つものが、より権力の強いものに取り入る際に、金か女をあてがうというのは、男の社会では納得のいく文化です。

1985年、男女雇用機会均等法ができた頃から、少しずつ女性の男性社会への進出が広がりました。

あくまで、おぢさんの肌感覚ですが、世の中が少しずつ変わるんだな、と感じました。

女性の社会進出がいいか悪いかの是非はともかく、男性社会の中に女性目線が入っていることは確かだと思います。

とくに、性=ハラスメント問題に関しては、わたしの子供の頃とは隔世の感があります。

かつては、女性がお茶くみをしたり、飲み会で上司の隣でお酌をしたりなどが当たり前とされていました。

ただ、わたし個人の人生において、そんな女性ならではの接待のようなことは古いとされて、あまり見かけませんでしたけどね。

何が言いたいかというと、かつては当たり前のこととされていたものが、社会の変節によって、一夜にしてひどい慣習と言われてしまいかねない危うさが、“文化”というものにはあるのだな、と感じた次第です。

みなさんは、司馬遼太郎はお好きですか?

『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』など、壮大で、とても読み応えのある歴史小説を書いた人です。

彼の作品の中に『峠』という作品があります。

幕末の話で、長岡藩という弱小の藩が、これからの時代にどうすべきか?と河井継之助という人物を主人公に書かれています。

その中の最初の方に、河井が藩から離れ、江戸に向かいます。

その道中、もちろん、宿をとるわけですが、そこで“お茶娘”という年若い女の子が、河井と同衾します。

もう、普通に自然にそうなるので、若かったかぶおぢさんは、少々たじろぎました。

河井継之助は、とくに女好きでも、遊び人でもありません。

むしろ、いたってまじめな人物です。

それでも、若い女の子と、宿で一夜を共にするのです。

なぜなら、それが当たり前だから。

現代の感覚では、とうていわかりえない話です。

しかし、かつての日本では、宿屋におけるそのような性接待は、当たり前の文化だったのです。

今、フジテレビの性接待疑惑が、ものすごく取りざたされています。

芸能界における接待文化も、ごくごく当たり前のこととしてて始まったのかもしれません。



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