「教会離れ」は、現代の政治や社会にどのような意味を持つのだろうか。
リベラルデモクラシーの社会では、各人は平等な個人であり、自由で独立した存在として意識される。
そのため個人主義と経済福祉への傾斜は避けがたく、人々を相互に結びつける社会的な連携は弱くなる。
人々は概して公的な事柄への関心を失い、一方で自分への経済状況の向上に直接つながる事柄には、とりわけ熱心になる。
フランスの思想家トクヴィルは、デモクラシーは社会秩序にとって不可欠な公共精神を衰弱させるだけでなく、物事を考える際の時間の幅を短期化すると指摘した。
「いまの」「自分にとって」という観点を優先させる自己中心的な人間が生まれやすくなるというのである。
そうした傾向を避けるには、地域の政治・行政への参加、利害と関心を共有する人々が自発的に連携する結社、何が正義かの判断に国民が参与する陪審制度など、公共精神を涵養する「装置」が不可欠だとトクヴィルは説いた。
さらに、宗教の役割にも注目した。
デモクラシーが健全に機能するためには、「いま」と「自分」に関心が集まりがちな人間の心を、「未来へ」「他者へ」と押し広げる必要がある。
宗教には、強い自己中心主義から人間を解放する力があると見ていたのだ。
ただし、トクヴィルの念頭にあったのは、必ずしも特定の宗派など組織化された宗教ではなかった。
人間の魂が求める「死と不死」の問題への答えを、素朴な形で示してくれるような理念であった。
未来や他者へと考えを広げることが、多数の横暴に容易に染まりやすいデモクラシーの不安定に対して、錘のような役割を果たすと考えたのだ。
トクヴィルが政治と宗教の分離を説いたのは、政治が宗教勢力に支配されることへの警戒心からではない。
むしろ逆に、宗教が政治的関心を高めることで、宗教の本来的な力が弱まるのを恐れていた。
宗教が指し示すのはあくまで理念である。
その理念によってわれわれは、より善き生と社会を自発的に求める力を得られる。
理念自体が特定の政治的、社会的行動を強いる力を持つわけではないのである。
改めて政治と宗教の関係を考えると、政教分離はそれほど簡単な原理原則ではなさそうだ。
難しさは、2月にスイスのイタリア語放送局行った教皇フランシスコのインタビューからも読み取れる。
教皇は、ロシアによるウクライナ侵略の終結に向けて両国に、「白旗を揚げて交渉する勇気」を持つよう促した。
これに対してウクライナの駐バチカン大使は、「誰がヒトラーに白旗を揚げることを考えただろうか」と強く反発したのだ。
ウクライナ側の反応は、宗教における理念と過酷な現実政治との間の、激しい葛藤を浮き彫りにした。
こうした反応こそ、政治と宗教を分離したとしても、国家間の争いでは宗教が必ずしも平和への橋渡し役を担えないことを示したと言えないだろうか。
歴史を振り返ると、政治と宗教が覇権を争う時代が長く続き、近代以降は経済生活が人々の突出した関心事となる社会が誕生した。
それ以前は、人々の行動の誘因は、慣習や伝統、公共的義務と個人的な約束事、宗教的戒律や政治的忠誠など、実にさまざまな価値意識から生まれていた。
それでも、ケインズの師であった経済学者アルフレッド・マーシャルはこう指摘している。
軍事的あるいは芸術的な精神の高揚が一時的に国家の支配的な力となったことはあったが、宗教的ならびに経済的な力が社会のおける主導的な地位から引きずりおろされたことはなかったと。
自由と平等を基本的価値とする現代のデモクラシーは、公共精神や思想、そして宗教への関心をさらに弱めるのだろうか。
その傾向は、科学と技術のとどまることのない発展といかなる関係にあるのか。
こうした問いに向き合う精神を、大事にしたいものだ。